第1章:別れのはじまり
ぽかぽかと陽の差す朝、キナコ(ハリネズミ)はふかふかの寝床で丸くなっていた。ケージの向こうから、小さな手がそっと伸びてくる。
「おはよう、キナコ!」
少女の声は、やさしくてあたたかい。まるで春の風のように、キナコの心を撫でてくれる。ころん、と小さな背中を見せると、少女の指が器用にその背中をなでた。
「キナコにも、きな粉あげたいなあ」
少女は笑顔で、自分のおやつを覆っていた粉を一つまみして差し出す。その様子を見ていた母親が、やわらかい声でたしなめる。
「キナコには食べさせてはいけないのよ。これは人の食べ物だから」
「えぇー……」少女は口をとがらせ、ちょっぴり不満そうに首をかしげる。でも、すぐにまたにっこり笑って、キナコをそっと抱き上げた。
「じゃあ、おさんぽ行こうね!」
ケージごと持ち上げられ、外の光がぱあっと広がる。キナコはまぶしさに目を細めながらも、少女の声に身を預ける。どこへ行くのかは分からなくても、この声があれば安心だった。
公園へ続く道を、少女はスキップ混じりに歩いていた。青空の下、花が咲き、小鳥がさえずる。キナコはケージの隙間から風の匂いを嗅ぎ、時折、草の緑が視界をよぎった。
だけど、その穏やかな時間は、あまりにも突然に崩れた。
「危ないっ!」
母親の叫びが響いた直後、キナコはふわりと宙を舞った。どん、と音がして、視界がぐるりと回転する。ケージごと弾かれ、ガードレールを超えた。
そして――水の冷たさが、キナコの小さな体を包んだ。
ゴウゴウと音を立てて流れる川の中、ケージはもがきながらも転がり、ついには壊れてしまう。キナコは懸命に小さな足で水をかいた。必死だった。ただ、少女のもとへ戻りたかった。
けれど、流れには抗えず、気がつくと川の岸辺にたどり着いていた。
「……ここは、どこ……?」
キナコの目に映るのは、見たことのない世界。高くそびえる木々、湿った土の匂い、遠くで鳴く鳥の声――少女の笑い声も、あたたかな手の感触も、ここにはなかった。
びしょ濡れの体を震わせながら、キナコはあたりを見回す。けれど、どこにも“帰る道”は見つからない。ただ、広がる草と空。
「……ひとり、なの……?」
そうつぶやくように、キナコは小さな体を丸めた。その背中に、夕陽の赤が静かに差し込んでいた。
――こうして、キナコの冒険は始まった。まだ見ぬ世界を歩く、小さな一歩が、いま踏み出される。
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