第2章:森の入口、はじめての出会い
冷たい水から這い上がったキナコは、びしょ濡れの体を震わせながら、深い森の入口に佇んでいた。あたりは見たことのない木々に囲まれ、空の色さえ少し違って見える。
「ここ……どこ……?」
少女の名前を呼ぼうとして、声にならなかった。胸の奥にぽっかりと空いた穴が、じんわりと痛む。けれど、泣いても誰も気づいてはくれない。そんなこと、キナコはもう知っていた。
ひとりで歩く森の道。風のざわめき、遠くで何かが走る音。すべてがキナコには大きくて、こわかった。
ふいに、カサリ、と茂みが揺れた。
「わっ!」
反射的に体を丸め、針を立てたキナコの前に、ピョンと飛び出してきたのは――ふさふさの尻尾を持つ小さなリスだった。
「うわっ、なにその針!? あっぶなーい!」
くるくると目を回すような速さで動くそのリスは、驚くキナコを見てぱっと笑った。
「ごめんごめん! そんなにびっくりさせるつもりなかったんだけどな~。……っていうか、キミ、森の子じゃないよね?」
「……う、うん。キナコっていうの。人間と一緒にいたんだけど……」
震える声で答えると、リスはぱちぱちと目を瞬かせた。
「なるほどなるほど! そりゃ迷子だ。ようこそ、キナコくん。ぼくはリッピ! 森でいちばんの物知りリスだよ!」
「物知り……?」
「うん。木の上からいろんなこと見てるからさ! この森のことなら、だいたい任せて!」
どこか頼りないような、でも憎めない笑顔のリッピに、キナコの緊張も少しずつほどけていく。
リッピはキナコを案内してくれると言い、小さな足で葉の上を器用に駆け回った。キナコはその後ろを、おそるおそるついていく。
「このあたり、最近ちょっと危ないんだよね。人間がなんか、変な鉄のカゴとか捨ててってさー。危なくて仕方ないんだよ。あっ、あそこ見て!」
リッピが指差した先には、地面に落ちた金網の罠があった。草に隠れて、ぱっと見では分からない。キナコはゾクリと背中を震わせた。
「これ、人間が捨てたの……?」
「そう。前にこれと似たものに足を挟まれた子もいてね、大変だったんだから。キナコくんも気をつけてよ」
リッピは軽く笑っていたが、その目はどこか寂しげだった。
歩き疲れたキナコのために、リッピは大きな木の根元にある穴を見つけてくれた。
「ここでちょっと休もうよ。夜になると冷えるからね」
二匹は並んで、木の影に身を寄せる。空の色がだんだんと紫に染まり、虫の声が遠くから聞こえてくる。
「キナコくん、人間のとこに戻りたいんだよね」
「……うん。あの子に、会いたいの」
キナコがぽつりと呟くと、リッピは小さくうなずいた。
「そっか。じゃあさ、ぼくが知ってること、全部教えてあげる。森の奥には、いろんな動物がいてね。中には、人間のことを知ってるやつもいるんだよ」
「ほんとに?」
「ほんとほんと! だから、キナコくんが無事に帰れるように、ぼく、できることするよ!」
リッピの声には、からっとした明るさがあった。それがキナコの心を、少しだけあたたかくした。
でも――夜が明ける前、リッピは突然言った。
「ここから先は、ぼくは行けないんだ」
「えっ?」
「ぼく、この森に家族がいてさ……あまり離れられないんだ。だから、ここまで」
リッピは申し訳なさそうに笑った。でも、その顔には後悔の色はなかった。
「ここまで来てくれて、ありがとう」
小さなリスが、そっと手を差し出す。その手を、キナコはゆっくりと針を寝かせて、そっと重ねた。
そしてまた、ひとりで歩き始める。
でももう、完全な“ひとり”ではなかった。
誰かがいた、という記憶が、キナコの背中を押してくれる。
少女のいる場所を目指して、小さな足で、森の奥へ――。
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