第4章:こころを照らすもの
第2節:炎の森と逃走劇
突如として、森の奥から黒く重たい煙が立ち昇った。空はたちまち鈍色に染まり、風が熱気を含んで吹きつけてくる。キナコは顔をしかめ、イタッチと並んで立ち止まった。
「……あれって、まさか……火事?」
遠くの木々の間から、炎が蛇のように這い回る様子が見えた。ぱちぱちと爆ぜる音が不気味に響き、乾いた葉や枝が焦げていく匂いが風に混ざって鼻をついた。火は驚くほどの速さで広がっていき、わずかな時間で森のあちこちから悲鳴があがり始めた。
「やばい……! 逃げるぞ!」
イタッチが叫ぶと同時に、周囲の動物たちが一斉に走り出す。木の上のリス、穴から飛び出すウサギ、空を旋回する鳥たち。みな、火の手から逃れるため、我を忘れて駆けていた。
キナコとイタッチも全力で走り出す。葉を焦がす熱風が背中を押し、地面を蹴る足に焦燥がにじむ。
「これ……燃えてるんだよね……!?」
キナコの声は風にかき消されそうだったが、イタッチは振り返ることなく叫び返した。
「人間のせいに決まってる!」
倒木をくぐり抜け、灌木を飛び越える。熱が喉を焼き、視界が煙で霞んでいく。だがその中で、キナコの耳に微かに聞こえてきたのは、ゴウンゴウンと響く低い音――空から、何かが近づいてくる。
「イタッチ、あれ……!」
空を見上げたキナコの目に映ったのは、回転する羽を持つ大きな鉄の鳥――ヘリコプターだった。真下にはホースを構えた人間たちが小さく見える。木々の隙間から、彼らが水をまいているのが見えた。
熱と煙の中で、キナコは一瞬、足を止めた。
あのヒナを救った少年の姿が、ふと脳裏をよぎる。
――もしかしたら、ここにも“助けようとしている人間”がいるのかもしれない。
「キナコ、止まるなっ!」
イタッチの声に、我に返る。すぐ後ろから炎の唸り声が迫ってくる。ふたりは再び走り出し、今度は小さな川の前に出た。
「飛べるか!?」
「やってみる!」
キナコは思い切って跳んだ。水面すれすれで着地すると、後ろから飛び込んできたイタッチが泥を跳ね上げる。燃えた枝が崩れ落ち、炎の舌が川辺をなぞるように伸びてきた。
「こっちだ! この倒木をくぐれ!」
イタッチが指差した方向へ、キナコは四つん這いで飛び込んだ。倒木の中はひんやりとしていて、わずかに煙の匂いが入り込んでいたが、それでも外の炎よりはずっとましだった。
出口を抜けた瞬間、視界に広がったのは、ほんの少し開けた草地だった。そこには、すでに逃げのびた動物たちが肩を寄せ合っていた。空にはまだ煙が立ち上っていたが、風が少しだけ炎の向きを変え、彼らのいる場所を離れていった。
しばらくの間、誰も何も言わずに、ただその場にうずくまっていた。燃えた森の匂いが、胸の奥までしみてくる。
「……なんとか、逃げ切ったな」
イタッチの肩が上下に揺れていた。呼吸がまだ落ち着かないまま、キナコは空を見上げた。
ヘリの羽音は、少し離れた場所で響き続けている。煙の中、人間たちの姿は小さくしか見えなかったが、懸命にホースを握るその手に、確かに“守ろう”という意志が感じられた。
「……あの人たち、必死だったね」
キナコがぽつりとつぶやく。イタッチは無言で空を見つめていたが、やがて小さく頷いた。
燃えていたのは、ただの木々だけではなかった。あの炎が通ったあとの森には、たくさんの痛みと記憶が残されていた。
だけど――
その中にも、希望の光はあった。
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